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 ★  | ススム | モクジ

● ひとり --- 一人だって平気 ●

「あたし、樋口(ひぐち)って嫌い」
 古ぼけた教室の、前から二番目の席。購買で買った、昼食用のツナサンドに、持参したマヨネーズをたっぷりかけて。いつものように取り留めもなく続く、気の知れた友人との会話。あまりにいつもと同じだから、あたしは油断していたのかもしれない。
 言ってしまってから、しまった、と思った。だけど、一度口から滑り出してしまった言葉は、もう取り返しがつかない。
 向き合ってメロンパンを食べていた美由紀(みゆき)は、きょとんとした顔で、頬杖を付いていた。
 左手を机から離した。どしたの在裏(あり)ちゃん、どっか具合悪い? 間の抜けたソプラノが聞こえる前に、私は更にまくしたてる。
「なんか、偽善者って感じじゃん。ああいうのって、生徒に好かれよう好かれようって魂胆丸見えで、すっげー浅ましい」
「ギ、ゼンシャ?」
「偽善者! ……あんたってホント、馬鹿だね。偽物ってこと。本当はちっとも優しくなんかないクセに、上辺だけ繕ってるってこと」
「そかな? でもわたしはすきだよ。樋口センセ。だいすき。二年になってセンセのクラスになれたって分かったとき、神様ありがとうって思ったもん。センセ、偽物なんかじゃないよ。本当に優しいんだよ」
「だとしても! ……あたしはあんな弱っちィ男、大嫌い」
「弱くないよ、センセ」
「弱いの」
「弱くない」
 そこで一旦言葉を切り、美由紀はあたしの目を見据えた。いつにもなく真剣な瞳で。
「…………本当に優しいひとって、強いひとだと思う」
「なに、それ」
 美由紀の言う言葉は時々意味不明だ。聞き返すと、美由紀は柔らかく微笑んだ。
「だって自分に余裕がなくちゃ、ひとに優しくなんてできないでしょ」
(例えば、今のあたしとか? ええ、ええ。おっしゃる通りで。余裕なんてちっともないから、いつだってピリピリしてますよ)
 ふっと思い浮かべた反論に、あたしは厳重に鍵を掛ける。美由紀に八つ当たりしたって全く仕方の無いことだ。
「もしそうだとしても、本当に優しかったら、……優しすぎたら生きてなんかいかれないはずっしょ? 所詮、そこまではいってないってこと」
「在裏ちゃんて賢いけど、頭よくないね」
(そうだね、自分でもそう思う)
 心の中で小さく頷いた。
 ……本当は分かってる。
 そう、樋口は優しい。優しすぎる。誰にでも、何にでも。本当、腹が立つほど優しい人だ。その優しさが、時には重荷にしかならないって、知ってるのかな。
「私はね、」
 美由紀は髪を――樋口に褒められて以来伸ばし続けている髪を、親指と人差し指で弄びながら、口を開いた。
「私は、センセがいれば他になんにもいらないよ。この恋が叶わないなら、生きる意味なんてきっとない」
 もちろん、死ぬつもりも無いけど、そう付け足して美由紀は笑った。奇麗な笑顔だった。彼女は冗談めかして言うけれど、多分本気。美由紀は、それくらい真剣に恋をできる女なんだ。
 ……一生懸命に樋口を思う美由紀は、いつだってきらきらきらきら眩しい。あたしには、おそらく一生真似できないこと。
 ふと、背後から視線を感じて、あたしは振り返った。
 それが、同じクラスの男子、一本(たかもと)(すすむ)のものだということは、凡そ予想がついていた。あたしは最近、やけにヤツと目が合う。
 タカモトは視線を逸らすでもなく、まっすぐにあたしを見据え続けた。
 美由紀も私が振り向いた原因に気づいたようで、小声で囁く。
「また、在裏ちゃんのこと見てるね、タカモトくん」
「みたいだね」
「きっと、在裏ちゃんのこと好きなんだよ」
「違うよ。……そういうんじゃないのは、なんとなく分かる」
「またまた、照れちゃって」
「……本当。多分アイツ、あたしのこと嫌いだよ」
 口の端が皮肉げに上がるのが、自分でもよく分かった。それに気づいたのか、美由紀はいつにもなく非難するような強い口調で、ばか、と言った。
「すぐに悪い方悪い方に考えるのは、悪いクセだよ」
「別に悪く考えてるわけじゃないよ、今回に関してはね」
 タカモトがあたしを見る時の視線は、いつだって冷たく、軽蔑を含んでいるから。もう一度タカモトの方を見る。と、もうヤツの方はあたしを見てはいなかった。
「でもタカモトの気持ちも分かる気がする」
「?」
 あたしだって、こんな自分大嫌いだから。声に出さずに、そう付け足した。
「ナニ、何て言ったの?」
「別に。大したことじゃないから。それより早くしないと、あんたの大好きな樋口先生の、授業(数学)が始まるよ」
 言い終わるが早いか、美由紀は残りのメロンパン――まだ四分の一以上残っていた――を口の中に放り込み、椅子を元の席に戻すと、すばやく机の中から数学の教科書を取り出した。
「ありひゃん、へんへがふるまへに、おひゃひょうはい」
 在裏ちゃん、センセが来る前に、お茶ちょうだい。――なんとかそう解読して、紙パックの紅茶を渡す。と、美由紀は引ったくるようにパックを取り、一気にそれを飲み干してしまった。

 ……恋する乙女っつーのは、恐ろしい。いろんな意味で。

 

景吾(けいご)くん、景吾くん。次の体育でオレ絶対にホームラン打つから、見ててよね」
 授業が終わるなり、タカモトは樋口に駆け寄った。
 タカモトは友達がいない。ううん、いない、っていうよりは、敢えて作らないようにしてる所もあるようにあたしには思えた。
 その割に、樋口にはずいぶんと懐いている。
「一本、『景吾くん』じゃなくて、『樋口先生』って呼ばなきゃ駄目だろ。それに、今からは三年の授業があるから、グランドまで見にいく暇なんてないよ」
「いいじゃん、そんなの。サボっちゃえば」
「よくない。そんなことしたらクビになる」
「ちぇ。オレと仕事と、どっちのが大切なんだよ」
「間違いなく、仕事だな」
「ひっでー。景吾くんのクセに、オレの純真な心を弄んだな!」
「どこが純真なんだろうね。バリケードの間違いじゃないのか」
 先生と生徒というよりは、友達同士みたいな会話が続く。……樋口の中であたしが一番嫌いなところ。
 ふと気づいたように、樋口がこちらを向いた。見ていたのを気づかれたのかもしれない。 あたしは素早く視線を時計の方向にずらした。けれど樋口は何故か一直線にあたしの方へと近づいてくる。タカモトの不満そうな声が聞こえた。緊張とある種の後ろめたさとで、心音が壊れたように大きく騒ぐ。
 樋口はあたしの机の前で立ち止まった。
(みさき)さん、聞きたいがあるんだけど、時間はありますか?」
 畔というのはあたしの名字。フルネームにすれば、みさきあり、だなんてふざけた言葉の出来上がり。
 あたしは自分でできる限りの一番冷たい声を出すよう心がける。
「何ですか? ……着替えなくちゃいけないんで、急いでるんですけど」
 思っていたよりずっと刺々しい、低い声が出た。樋口は困ったように一歩引く。
「あ、うん、なら後でもいいんだけど……」
「それならはじめから話しかけたりしないでください。はっきり言って……迷惑です」
 樋口が言葉を全部言い終わらないうちに、あたしは体操着を掴み、教室の外へと出た。 いいや、上手く出れたと思っていた。けれど、教室を出る一瞬前、タカモトと目が合う。いつものように冷たい視線だった。
 タカモトは小声で呟くように言う。
「畔さ、本当は景吾くんのこと好きだろ? どうして隠す?」
「何、それ!」
 思わず立ち止まり、キッと睨つけた。と、タカモトは哀れな物を見るように、微笑む。
「人を好きになるって、すっげー奇麗な感情じゃん。オレは言えるよ、景吾くんのこと好きだって。たとえ、大勢の人の前でだって。畔は、……そんなにも自分に自信ねーの?」 言うだけ言って、タカモトは廊下へと出ていってしまった。
「何……、それ…………」

 

「ただいま……」
 誰もいない部屋に、座りこんだ。
 二十四時間、常につきっぱなしのテレビ。
 必要以上に物のない、殺風景な棚。
 鳴らない電話。
 いつもの風景。
 何の変わりもない日常。
 高校に入学と同時に一人暮らしを始めてから、一年とちょっと、ずっと変わらない生活。 惰性だけで過ぎていく、時間……。
 結局、体育の時間は上の空のまま終わってしまった。頭の中ではずっと、タカモトの言葉がリフレインされる。
『本当は景吾くんのこと好きだろ?』
 うるさい。
『どうして隠す?』
 うるさい、うるさい、うるさい!
『……そんなにも自分に自信ねーの』
「黙れ! お前なんかに、……お前なんかに何が分かる!」
 思わず叫んでしまってから、はたと気づく。クッションが散乱していることから、大分八つ当たりをしてしまったことは用意に想像できた。
 仕方なくクッションを元の定位置に戻す。
 リモコンでチャンネルを変えても、ちっとも面白いものなんてやっていなかった。すぐにあたしは、ビデオの再生ボタンを押した。
 コンビニ弁当と、ペットボトルのお茶で、簡素な夕飯を始める。マヨネーズのチューブを絞って、弁当にかけるのは忘れずに。残り少ないそれを力一杯絞り上げると、大きなため息が出た。
「マヨネーズ、また買ってこなくちゃ」
 聞く者のいない一人言が零れる。
 テレビをつけたまま、お風呂に入り、それから簡単に宿題を終え、ベッドに入った。



「一人だって平気だよ。あたし、強いもん」
「それって、僕は必要ないってこと?」
「うん、いらない。人に甘えるだなんてまっぴらごめん」
「……でも、僕はこんなにも在裏を……」
「言わないで」
「在裏?」
「あたしはあなたの求めてる、可愛い女の子にはなれない。きっと、永遠にね。だから、一緒にいない方がお互いの為なんだよ」
「そんなこと」
「あるの。だから、……バイバイ」
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